第二次世界大戦初期、連合国側がロシアを攻撃する計画は、歴史的記録からほぼ消されていた

アメリカのプラウダ

ヒトラーはいかにして連合国を救ったか
ロン・ウンズ - ウンズ・レビュー -

2019年5月13日

https://www.unz.com/runz/american-pravda-how-hitler-saved-the-allies/

数年前、私はたまたま
フランス在住のアメリカ人ジャーナリスト、
シスリー・ハドルストンの
第二次世界大戦回顧録を読んでいた。
忘れ去られて久しいが、
ハドルストンは数十年にわたり、
最も著名な海外特派員のひとりとして活躍し、
『アトランティック・マンスリー』誌、
『ニュー・リパブリック』誌、
『ハーパーズ』誌に数多くの主要記事を掲載し、
19冊もの著作があった。

そのような高名さから、
彼の個人的な付き合いは
エリート界隈にまで及んでおり、
最も古くからの親しい友人のひとりは、
FDR政権下で初のソ連大使館を
開設したこともある
駐仏アメリカ大使のウィリアム・ブリットだった。

ハドルストンの信頼性は
非の打ち所がないように思えた。
だからこそ、
私が歴史入門の教科書から
吸収した内容とはまったく逆の、
戦時中のヴィシーに関する
彼の生の記述に衝撃を受けたのだ。

ペタンの合作主義政権は
ほとんど正統性を持たないという印象を
私は常に持っていたが、
まったくそうではなかった。

正規に選挙で選ばれたフランス議会の
両院のほぼ全会一致の多数が、
彼自身の個人的な深い不安にもかかわらず、
この年老いた陸軍元帥を、
1940年のヒトラーによる大敗の後、
フランスを統一する国民的救世主としての
唯一の希望とみなし、
大統領に選出したのである。

ハドルストンはドイツ軍には
ほとんど同情していなかったが、
圧倒的な勝利の後にドイツ軍が見せた
細心の注意を払った正しさには注目していた。

1944年のノルマンディー上陸作戦と
それに続くドイツ軍の撤退によって、
反ペタン勢力に突然権力の扉が開かれると、
彼らはフランス革命の悪名高い
『恐怖の支配』をはるかにしのぐ、
おそらくフランス史上前例のない
イデオロギーに基づく血の乱舞を繰り広げた。

流血の中でも最悪のものは、
スペイン内戦に敗れた
亡命共産主義者の手によるもので、
彼らは敗戦後フランスに庇護を見いだし、
わずか数年前の紛争で自分たちを打ち負かした
ブルジョワ」階級の敵対者たちを、
一転して虐殺する機会を得ようと躍起になった。

ハドルストンの証言と、
私が常に全面的に受け入れてきた
戦時中のフランスに関する伝統的な物語とを
比較検討しようとしたとき、
ほとんどの要素が
彼に有利に働くように思われた。

結局のところ、
彼のジャーナリストとしての信用は申し分なく、
彼が報告した出来事の直接の観察者として、
彼の発言は非常に重要なものであった。

一方、私たちの歴史書を支配している
標準的な物語のほとんどは、
大西洋の反対側に住む作家たちによって
一世代ほど後に構築されたものであり、
彼らの結論は、
その頃までにアメリカのエリート大学で
厳格に制定されるようになっていた
白黒のイデオロギーの枠組みに
大きく影響されていたのかもしれない。

しかし、私はハドルストンの記述に大きな、
隙間のある欠陥があることに
気づかずにはいられなかった。
それは、ジャーナリストとしての
彼の信頼性に重大な疑念を抱かせるほどの
重大な誤りである。

本書の冒頭で、彼は1ページほどを割いて、
1940年の数カ月間、
フランスとイギリスが中立国ソ連に対する
攻撃を準備していたこと、
シリアとイラクの基地を利用して、
スターリンコーカサス地方
バクー油田を破壊するための
戦略的爆撃を行っていたことに
さりげなく触れている。

https://nationalinterest.org/blog/the-buzz/the-early-days-world-war-ii-britain-france-planned-bomb-19691

もちろん、どの軍事組織でも、
あらゆる可能性のある状況や
敵対勢力を網羅した
豊富な仮説的緊急時対応計画
作成するものだが、
ハドルストンはどういうわけか、
そのような可能性や噂を
まったくの事実と誤解していた。

彼によると、連合軍のソ連爆撃は
3月15日に開始される予定だったが、
当初はさまざまな政治的理由で延期され、
再延期された。

それから数週間後、
ドイツ軍のパンツァー師団が
アルデンヌの森を掃討し、
フランス軍を包囲してパリを占領し、
連合軍のロシア砲撃計画は頓挫した。

ソ連がドイツの最終的な敗北の
立役者であったことを考えれば、
連合国が早期にソ連本土を攻撃すれば、
戦局は確実に変わっていただろう。

ハドルストンの奇想天外な空想は、
いつの間にか彼の歓心を買うことになったが、
"なんという間一髪のところだったのだろう!"
と彼が叫んだのは、
ほとんど間違いではなかった。

第二次世界大戦勃発からわずか数カ月後に、
連合国がソ連に対して、
大規模な空爆攻勢を仕掛ける準備をしていた
などという考えは明らかに馬鹿げており、
私が読んだヨーロッパ紛争に関する
標準的な歴史書には、
そのような長い間否定されてきた噂は
微塵も載っていなかった。

しかし、ハドルストンが終戦から
数年経ってもなお、
そのような馬鹿げた信念に固執していたことは、
彼の騙されやすさ、あるいは正気さについて
大きな疑問を投げかけた。

私は、彼が他のことについて言った
言葉一つさえ信用できるのだろうかと思った。

しかし、それからほどなくして、
私は『ナショナル・インタレスト』誌に
掲載された2017年の記事で
驚くべきことに遭遇した。

その短い記事には、
"In the Early Days of World War II, Britain and France Planned to Bomb Russia"
第二次世界大戦初期、
イギリスとフランスはロシア爆撃を計画した)
という説明的な見出しがついていた。

ハドルストンの信頼性は完全に確立され、
私が使っていた標準的な
歴史教科書の信頼性も同様に崩れ去った:


アメリカのプラウダ:戦後フランスと戦後ドイツ
Ron Unz - The Unz Review - 2018年7月9日 - 6,600ワード

https://www.unz.com/runz/american-pravda-post-war-france-and-post-war-germany/

私は自分のことを第二次世界大戦史の
専門家だとは思っていないが、当初は、
この巨大な紛争における
初期の重要な転換点をまったく知らずに
過ごしてきたことを深く恥ずかしく思った。

しかし、その
『ナショナル・インタレスト』の記事を
注意深く読むと、
私の恥はすぐに消え去った。

著者のマイケル・ペックも、
その編集者や読者も、
同じように長い間埋もれていた事実を
知らなかったことは明らかだったからだ。

実際、この記事は
当初2015年に掲載されたが、
読者からの膨大な要望により
数年後に再掲載された。

私が知る限り、
そのたった1100字のエッセイは、
戦後70年間、初めて、そして唯一、
この重大な出来事が
世間から注目されたものだった。

ペックの論考は、
ハドルストンの簡潔な、
その場しのぎの発言に大きな肉付けをした。

フランスとイギリスの上層部は、
ロシアの石油資源を破壊することを期待して、
パイク作戦という
巨大な爆撃機の攻勢を準備しており、
無名の偵察機はすでにバクーを上空飛行し、
意図した目標の位置を撮影していた。

連合国側は、
ドイツを打ち負かす最善の戦略は、
石油やその他の重要な
原材料の供給源をなくすことだと確信しており、
ロシアはヒトラー
主要な供給国であったため、
ソ連の油田を破壊することが
論理的な戦略だと判断した。

しかし、ペックはこの推論の
重大な誤りを強調した。
実際のところ、
ヒトラーの石油のごく一部が
ロシアからもたらされていただけであり、
作戦が完全に成功したとしても、
その真の影響は低かっただろう。

また、連合軍司令官たちは、
数週間にわたる継続的な砲撃
(その時点で世界最大規模の
戦略爆撃作戦であったらしい)によって、
ソ連の石油生産はたちどころに
すべて失われると確信していたが、
後の戦争では、
その予測が荒唐無稽なほど
楽観的であったことが示唆された。

つまり、ソビエトへの損害は
おそらく大きくはなかっただろうし、
その結果、ヒトラースターリン
全面的な軍事同盟が結ばれれば、
戦局は確実に逆転していただろう。

このことは、同記事の2015年の原題
「Operation Pike(パイク作戦)」
にも反映されている:
How a Crazy Plan to Bomb Russia Almost Lost World War II"(ロシアを爆撃する狂った計画はいかにして第二次世界大戦をほぼ失ったか)

https://nationalinterest.org/blog/the-buzz/operation-pike-how-crazy-plan-bomb-russia-almost-lost-world-14402

しかし、後知恵によって、
その不運な爆撃計画の悲惨な結果を
認識することはできるが、
当時の政治指導者や戦略家たちに対して
過度に辛辣になるべきではない。
軍事技術は非常に流動的であり、
1943年や1944年には明白と思われた事実も、
紛争が始まった当初は
はるかに明確ではなかった。

第一次世界大戦の経験に基づき、
ほとんどのアナリストは、
ドイツ軍も連合軍も西部戦線
早期に突破口を開く望みはないと考えていた。

一方、ソビエトは脆弱な軍事大国であり、
おそらくドイツの戦争マシンの
「柔らかい下腹部」を構成しているのではないか
と疑われていた。

また、連合国がソ連を攻撃した場合の
政治的影響のうち、
最も広範囲に及ぶもののいくつかは、
当時それを検討していた
フランスやイギリスの指導者たちには
まったく知られていなかっただろう。

彼らは、ソ連と密接に連携している
自国の強力な共産主義運動を
確かに認識していたが、
ルーズベルト政権の最高指導部が
スターリンに完全に忠実な
多数の工作員によって
蜂の巣にされていたことが明らかになったのは、
何年も後のことであり、
最終的な証拠は1990年代に
ヴェノナ機密文書が公開されるのを待っていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8E%E3%83%8A

そのため、連合軍が突然
ソビエトと戦争になった場合、
これらの影響力のある人物の
全面的な敵意によって、
アメリカの実質的な軍事援助はおろか、
ヨーロッパ紛争への最終的な介入も、
将来的な見込みを
大きく減らすことになっただろう。

したがって、もしドイツ軍が
何らかの理由で1940年のフランス攻撃を
数週間遅らせたとしたら、
連合軍の攻撃はソビエト軍を参戦させ、
ドイツの勝利を
ほぼ確実なものにしていただろう。

ヒトラーの偶然の行動によって、
連合国が自らの愚かな計画による
悲惨な結末から
うっかり救われたことは否定できないようだ。

1940年の連合国・ソビエト戦争の
勃発がもたらす劇的な影響を探ることは、
オルタナティブ・ヒストリーの一例として
興味深いかもしれないが、
知的なエクササイズとしては、
現代の世界との関連性はほとんどない。

それよりもはるかに重要なのは、
私たちの多くが常に
現実のものとして受け入れてきた
標準的な歴史物語の信頼性について、
この記述が明らかにしていることである。

まず探求すべきは、
連合国によるソビエト攻撃計画の証拠が、
『ナショナル・インタレスト』誌の
記事で示唆されているほど
実際に強力であったかどうかである。

根拠となる情報は、
パトリック・R・オズボーンが2000年に
『軍事研究への貢献』と題する
学術シリーズで出版した『パイク作戦』から得た。

かなり辛口ではあるが、
300ページに及ぶこの単行本は、
公式文書館やその他の政府記録から引用された
資料の圧倒的な大部分を用いて、
その事例を丹念に文書化している。

連合国首脳は、
ソ連に対する攻撃計画に
トルコとイランを参加させるため、
広範な外交努力をした。


連合国側の第一の動機は、ドイツへの必要な原材料の
流入をなくすことだったが、

より広範な目的もあった。

1930年代にソ連の農業を強制的に集団化した結果、
家畜の屠殺が広まり、
その家畜はガソリンを必要とする
ラクターに取って代わられた。

連合国の指導者たちは、
もしソ連の石油供給を
なくすことに成功すれば、
その結果生じる燃料不足が
農業生産の崩壊につながり、
おそらく飢饉を引き起こして
共産党政権を一掃することができると考えていた。

連合国は常にソビエトに強い敵意を抱いており、
この作戦は、20年前の軍事介入時に
コーカサスボリシェヴィキの手によって
戦死したイギリス軍将校
パイク大佐にちなんで計画された。

この反ソ計画は、1939年末にスターリン
小さなフィンランドを残忍に攻撃した後、
急速に加速した。

フィンランドが予想外に激しく抵抗したため、
西側諸国はソ連を露骨な侵略者として
国際連盟から除名することになり、
また政治エリートや一般市民の間にも
軍事介入の要求が広まった。

フィンランド冬戦争
http://torikai.starfree.jp/1939/winter.html

実際、この時期の大半において、
連合国側のソビエトに対する敵意は、
名目上はソビエト
戦争状態であったにもかかわらず、
ドイツに対する敵意よりも
はるかに大きかったようであり、
特にフランスの感情は強かった。

ある英国選出の高官は、
「フランスはロシアと戦争状態にあり、
ドイツとは単に非常に
友好的でない関係にあるという印象を受ける」
と述べている。

連合国は、ポーランド亡命軍を
ソビエトとの地上戦に利用し、
おそらくは祖国を占領した
憎き共産主義者に対する
ポーランド人の蜂起を呼び起こすつもりだった。

オズボーン氏は、もしこの計画が
スターリンに漏れていたとしたら、

スターリンがこの時、
すでに捕虜として拘束していた
15,000人のポーランド人将校と
警察官を直ちに処刑するよう
NKVDに指示する公式命令に署名した理由を
説明できるかもしれないと指摘する。

イギリスとフランスによる
このような軍事計画や
内部での話し合いは、
当時まったく秘密にされ、
そのアーカイブは何十年もの間、
歴史家たちに封印されたままだった。

しかし、オズボーンは、彼の魅力的な説明の冒頭で、
勝利したドイツ軍が
1940年にパリに向かって移動した後、
フランス政府はすべての秘密外交ファイルを破棄、
または避難させようとした。

国際的な宣伝効果を狙って、
ドイツはすぐにこれらの重要文書を
英訳と原本の
ファクシミリコピーの両方で公開した。

当時、これらの公開が
西側のメディアで大きく
報道されたかどうかは不明だが、
スターリンは、すでに自分のネットワークから
断片的に得ていた共産主義スパイの情報を、
このように詳細に確認できたことを
知ったに違いなく、
西側に対する不信感を深めたに違いない。

また、ハドルストンが1952年の回顧録で、
連合軍の攻撃計画について
さりげなく言及する自信に満ちた理由を
説明するために、
この話は、情報通の観察者全員に
すぐに知れ渡ったことだろう。

1941年6月のヒトラー
バルバロッサによるソ連侵攻によって、
ソビエトが連合国側として
突然参戦することになった後では、
このような非常に恥ずべき事実は
当然ながら曖昧なものとなっていただろう。

しかし、このような
政治的に正しい」健忘症が
学術研究界に深く浸透し、
オズボーンの単行本が出版されるまでの60年間、
この驚くべき事実の痕跡が
事実上すべて消えてしまったことは、
非常に驚くべきことである。

この間、第二次世界大戦に関する
英語の書籍は他のどのテーマよりも多く
出版されたかもしれないが、
その何千万ページもの中には、
戦争初期のロシア攻撃という
重大な連合国側の計画に関する記述は
一段落も含まれていなかった可能性がある。

オズボーン自身は、
第二次世界大戦の研究者がこの問題に
「ほとんど注意を払っていない」と指摘し、
数少ない重要な例外として
1973年の学術雑誌の論文を挙げている。

私たちは、このような
記念碑的な重要性を持つ出来事が、
2世代以上にわたって、
私たちの歴史的記録から
ほとんど完全に排除されてきたことを
深刻に憂慮すべきである。


さらに、2000年にオズボーンの膨大な資料を集めた
学術研究が発表されたことさえ、
第二次世界大戦の歴史家たちから
はほとんど完全に無視されているようだ。

たとえば、高名な戦史家
クリス・ベラミーが2007年に出版した
『絶対戦争』(Absolute War)を考えてみよう。

この800ページの著作は、第二次世界大戦における
ソビエト・ロシアの役割に関する
「権威ある」記述として、表紙を飾っている。

25ページに及ぶ詳細な索引には
「バクー」のリストはなく、
1940年初頭に連合国が
ソ連を攻撃する準備を進めていたことは、
バルバロッサの余波を受けた15ヵ月後、
150ページにわたって
ちらりと言及されているのみである。

「しかし6月23日、NKGBは、
英国空軍参謀総長のチャールズ・ポータル卿が、
インドと中東の司令部に、
ドイツ軍への供給源として使用される恐れがある
バクー油田を爆撃する計画を中止するよう、
電報を打つことを提案したと報告した。

オズボーンの暴露は、15年後に
『ナショナル・インタレスト』誌で
公表されるまで、
跡形もなく消えてしまったようだ。

第二次世界大戦終結後、
最初の数十年間、
歴史家たちがこのテーマを避けてきた理由は
容易に理解できるが、
一世代か二世代が過ぎれば、
学問的客観性の回復を期待するのが妥当だろう。

パイク作戦は、戦争の行方にとって
可能な限り最も重要なものであったのに、
このテーマに関する
事実上すべての著述家によって
ほとんど無視されてきたのはなぜだろうか。

1940年初頭、連合国が
ソ連に対して世界史上最大の
戦略爆撃攻勢を仕掛ける準備を
進めていたことは、
簡単に忘れ去られるような、
退屈で曖昧なディテールとは思えない。

第一世代の戦記作家たちは、
イデオロギー的な恥ずかしさを避けるために、
この事実を注意深く
物語から除外していたとしても、
ドイツが文書を公表した以上、
彼らはその事実を知っていたに違いない。

また、彼らの若い後継者たちは、
彼らが研究した書物の中でこの件に触れているのを
見たことはなかったが、
標準的な物語から取り残された
「戦時中の隠された秘密」のいくつかについて、
彼らの指導者たちが時折彼らに
ささやいたことはあっただろうと予想される。

さらにオズボーンは、
専門的な学術雑誌には
ごくたまにこの事実についての論考が
掲載されていたことを指摘している。
しかし、オズボーンの膨大な文書が
立派な学術シリーズに掲載された後でも、
沈黙はまったく耳をつんざくものであった。

パイク作戦のケースは、
私たちが伝えられてきたことの
正確さと完全さを受け入れるには、
細心の注意を払わなければならないことを
示している。

https://nationalinterest.org/blog/the-buzz/operation-pike-how-crazy-plan-bomb-russia-almost-lost-world-14402

このような結論には明らかな帰結がある。
私のウェブサイトには、質の差はあれ、
多くのコメンターが集まる傾向がある。
そのうちの一人、
「エイブリー」と名乗る
ソビエトアルメニアからの移民は、
トルコ人とトルコを激しく敵視しているが、
かなり博識で冷静なようだ。
数年前、第二次世界大戦に関する
私の記事のひとつに、
彼から興味深いコメントが寄せられた:

スターリングラードの戦いの最中、
公式には中立でありながら
ナチス・ドイツに密かに協力していたトルコは、
ソ連アルメニアソビエト連邦)との
国境に巨大な侵攻軍を集結させていた。

もしドイツ軍が
スターリングラードで勝利していれば、
トルコ軍はバクーに侵攻し、
そこでドイツ軍と合流し、
スターリングラードから下ってきて
油田を奪うつもりだった。

パウルス軍が包囲され全滅すると、
トルコ軍はすぐに国境を離れて兵舎に向かった。
スターリントルコ人の裏切りを忘れず、
決して許さなかった。

ドイツが降伏すると、
スターリンアルメニアソビエト連邦
グルジアソビエト連邦に大軍を集結させた。
東トルコと西アルメニアに侵攻し、
トルコ人を追い出す計画だった。

アメリカの2発の原子爆弾の爆発によって、
スターリンは撤退を決意した。
アメリカが2発の原爆を爆発させたのは、
日本を降伏させるためではなく、
スターリンへのメッセージだったという説もある。

質問された彼は、
欧米の情報源に言及があったことは
知らなかったと認めたが、こう付け加えた:

私の出身地であるアルメニアSSRでは常識だった。
アルメニアSSRグルジアSSRの国境付近には、
見たこともないほど多くの
赤軍部隊や軍用機器が集結していた。
そして、彼らは皆いなくなってしまった......。

通常であれば、
西側の歴史家たちの普遍的な沈黙と、
古参兵から聞いた話を
鵜呑みにしている匿名のコメント主の
非公式な主張とを天秤にかけることは、
難しい選択ではないだろう。
しかし、どうだろう?

オズボーンが取り上げた公文書は、
イギリスがソ連への攻撃計画に
トルコ軍を参加させるために
相当な努力をしたことを示している。
しかし、トルコが1940年に
そのような軍事的冒険を強く考えていたとしても、
ソビエトがすでに
ドイツの手によって莫大な損失を被っており、
非常に手ごわいドイツ軍が
コーカサスに接近していることを考えれば、
1942年にトルコがそのような
軍事的冒険をすることを
はるかに熱望していたであろうことは、
かなりもっともらしく思われる。

戦後まもなく、トルコは
ソビエトに対するアメリカの
最も重要な冷戦同盟国のひとつとなり、
トルーマン・ドクトリンと
NATOの創設において
中心的な役割を与えられた。

同じトルコ政府が、ほんの数年前に
ヒトラーの枢軸国に加わり、
ナチスの同盟国として
ロシアを攻撃する寸前まで行ったという事実は、
アメリカの国益
著しく損なうものであった。

そのような事実は、
この戦争に関するすべての歴史から
徹底的に排除されたことだろう。

 

②に続く