第二次世界大戦の真実を語る④世界史上最大の民族浄化は戦後ドイツで起こっていた

なぜ第二次世界大戦についてあなたが知っていることはすべて間違っているのか
マイク・ホイットニー、ロン・ウンズと対談
ロン・アンツとマイク・ホイットニー - 2023年6月12日
https://www.unz.com/runz/why-everything-you-know-about-world-war-ii-is-wrong/

第4問:戦後のドイツ

モーゲンソープラン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3

多くのアメリカ人は、敵対関係の終結後、
ドイツ国民は人道的に扱われ、
マーシャル・プランがヨーロッパの
再建に役立ったと信じている。

それは実際に起こったことの
正確な説明なのだろうか?(フレダ・アトリー)

ロン・アンツ

今日では忘れ去られて久しいが、
レダ・アトリーは世紀半ばに活躍した
ジャーナリストである。

イギリス人女性として生まれた彼女は、
ユダヤ共産主義者と結婚して
ソビエト・ロシアに移り住み、
スターリンの粛清で夫が倒れた後に
アメリカに亡命した。

敗戦国ナチスに同情的であったとは言い難いが、
ニュルンベルクにおける司法の
とんでもない曲解に対する
ビーティの見解に強く共感し、
占領下のドイツで過ごした数カ月間の
彼女の実体験に基づく記述は、
終戦後数年を経てもなお、
打ちひしがれた民間人に課せられた
恐ろしい苦痛の描写において
目を見張るものがある。

1948年、彼女は占領下のドイツを
数カ月かけて旅行し、翌年、
その体験を『復讐の代償』として出版した。

他の大多数のアメリカ人ジャーナリストは
短時間の、
しかも厳重な付き添い付きの訪問が
一般的であったが、
アトリーは実際にドイツ語を話し、
ワイマール時代にはたびたび
ドイツを訪れていたため、
ドイツにかなり精通していた。

グレンフェルの論考が非常に抑制された、
ほとんどアカデミックな調子であったのに対し、
彼女自身の文章はかなり激しく感情的であった。

彼女の目撃証言はかなり
信憑性があるように思えたし、
彼女が提供した事実に基づく情報は、
多くのインタビューや逸話的観察によって
裏打ちされており、心をつかまれるものだった。

敵対行為の終結から3年以上経ったいまも、
アトリーはほとんど
廃墟と化した土地に遭遇し、
住民の大部分は損壊した地下室に避難したり、
壊れた建物の小さな部屋を
共有したりすることを余儀なくされた。

住民は自らを「無権利者」とみなし、
しばしば占領軍やその他の
特権階級による恣意的な扱いを受け、
彼らは正規の地方警察の
法的管轄権から完全に外れていた。

この状況は、死後に出版された
ジョージ・パットン元帥の日記の中で、
憤りをもって指摘されていた。

この時点でも、外国人兵士が
ドイツ民間人から欲しいものを
何でも奪い取ることがあり、
彼らが窃盗に抗議すれば、
危険な結果を招く可能性があった。

アトリーは、フランスで占領任務に就いた
元ドイツ兵の言葉を引用し、
彼と彼の仲間たちは厳しい規律の下で
行動しており、
現在の連合国軍がドイツ軍市民を扱うような態度で
フランス軍市民に接することなど
想像もできなかったと述べている。

引用されたアトリーの
主張のいくつかは非常に驚くべきものだが、
信頼できる情報源にしっかりと基づいており、
他の場所でも十分に確認されているようだ。

平時の最初の3年間を通じて、
ドイツの全市民に割り当てられた
1日の食糧配給量はおよそ1550キロカロリーで、
これは終戦直後のドイツの
強制収容所の収容者に支給されたものと
ほぼ同じであり、
時にはそれよりはるかに低いこともあった。

1946年から47年の厳しい冬の間、
ドイツの工業の中心地であるルール地方の全人口は、
1日700~800キロカロリー
飢餓配給しか受け取っておらず、
さらに低いレベルに達することもあった。

敵対的な公式プロパガンダに影響され、
連合軍兵士の一般ドイツ人に対する態度は、
ヨーロッパの植民地政権下で暮らす
原住民が直面するものと同じくらいひどいものであった。

アトリーは、1930年代の大半の間、
西洋人が原住民の
中国人に対してとっていた扱いや態度、
あるいはイギリス人がインドの植民地臣民に対して
表明していた態度との驚くべき類似を、
何度も何度も指摘している。

小さなドイツ人の少年たちは、
靴もはかず、貧しく、飢えていたが、
アメリカのスポーツクラブで、
わずかな小銭で熱心にボールを回収していた。

今日では、19世紀後半のアメリカの都市に実際に
アイルランド人お断り」の
看板があったかどうかが議論されることもあるが、
アトリーは確かに、
連合軍関係者がよく利用した
数多くの店の外に「犬・ドイツ人お断り
の看板があったのを見た。

私は標準的な歴史の教科書に基づき、
1940年から44年にかけて
フランスを占領したドイツ軍と、
1945年以降にドイツを占領した連合軍とでは、
現地の市民に対する振る舞いに
まったく昼夜の差があると信じてきた。

アトリーの詳細な証言や
他の同時代資料を読んで、
私の考えはまったく正しかったと思う。

アトリーは、
このまったく悲惨な状況の原因の一部は、
アメリカ政府の意図的な政策にあると考えた。

ドイツの人口の半分ほどを
抹殺することを目的とした
モーゲンソー・プランは公式には放棄され、
ドイツの復興を促進する
マーシャル・プランに取って代わられたが、
実際には前者の多くの側面が
依然として支配的であることを彼女は発見した。

1948年の時点でさえ、
ドイツの産業基盤の大部分は解体され、
他国へ移転され続けていた。

実際、彼女がいたるところで目にした貧困、
悲惨、抑圧のレベルは、
一般のドイツ人をアメリカや西側同盟国に敵対させ、
おそらくは共産主義シンパへの扉を開くために、
意図的に計算されているように思えた。

このシステムが、
後にソ連工作員であったことが明らかになった
ハリー・デクスター・ホワイトによって
考案されたものであることを考えれば、
そのような疑念は確かに強まる。

彼女は特に、
ニュルンベルク裁判をはじめとする
さまざまな戦争犯罪裁判において、
人間の正義という基本的な概念が
完全に曲解されたことを痛烈に批判しており、
このテーマには2章を割いている。

これらの裁判手続きは、
最悪の法的二重基準を示しており、
連合国の主要な判事たちは、
自国はドイツ人被告に対して執行していると
主張する国際法条約にまったく
拘束されていないと明言している。

さらに衝撃的だったのは、
憤慨したアメリカの法学者や
ジャーナリストたちは、次のことを明らかにした。

恐ろしい拷問、脅迫、恐喝、
その他のまったく非合法な手段が、
自白や他人の糾明を得るために
定期的に使用されていた。

この状況は、有罪判決を受けて
絞首刑にされた人々の
かなりの数の数が完全に
無実であることを強く示唆する状況であった。

 

彼女の著書は、
ドイツ民族が何世紀にもわたって平和に暮らしてきた
シレジア、スダーテンラント、東プロイセン
その他中欧・東欧のさまざまな地域から
組織的に追放された事件も大きく取り上げている。

家族は、
100年以上住み慣れた家を出るのに
10分しか与えられないこともあり、
その後、見たこともない遠い土地に向かって、
時には何百マイルも徒歩で行進させられた。

場合によっては、
生き残った男子は切り離され、
奴隷労働キャンプに送られた。

少なくとも数百万人が、飢えや病気、
被爆などで命を落としたと推定されている。

最近では、
19世紀初頭の遠い過去に
チェロキー族が受けた悪名高い
「涙の道」についての痛ましい議論を
延々と読むことがあるが、
このむしろ似たような20世紀の出来事は、
その1000倍近い規模であった。

このように規模が大きく、
時間的な距離もはるかに離れているにもかかわらず、
一般のアメリカ人の間では、
前者の出来事の方が1000倍も
世間に知られているのではないだろうか。

もしそうなら、
圧倒的なメディアコントロールが、
認識される現実を100万倍以上に
容易に変化させることができることを
示していることになる。

この人口移動は、
確かに世界史上最大の
民族浄化であったように思われる。

もしドイツがヨーロッパの勝利と征服に
明け暮れていた時代に、
少しでも似たようなことをしたことがあれば、
このような絶望的な、
とぼとぼ歩く膨大な難民の洪水という
視覚に訴えるシーンは、
過去70年間の数多くの第二次世界大戦映画の
目玉になっていたに違いない。

しかし、そのようなことは起こらなかったので、
ハリウッドの脚本家たちは
絶好の機会を失ったのである。

復讐の代償
レダ・アトリー - 1949 - 125,000 Words

アトリーの極めて厳しい描写は、
他の多くの情報源によって強く裏付けられている。

1946年、社会主義ユダヤ人出身の
著名なイギリス人出版社
ビクター・ゴランツはドイツを長期訪問し、
翌年『暗黒のドイツ』を出版した。

彼の主張するひどい栄養失調、病気、
完全な困窮は、
100枚を超える冷ややかな写真によって
裏付けられており、アメリカ版の序文は、
当時最も評判の高かった公共知識人の一人である
シカゴ大学学長ロバート・M・ハッチンスが執筆した。

しかし、このスリムな一冊は、
アメリカの主流メディアでは
比較的注目されなかったようだ。

前年に出版された、
公式情報源からの情報に基づく
やや類似した著書『Our Threatened Values
(脅かされる価値観)』は、
もう少し注目されたのだが。

同じく1947年に出版された
ラルフ・フランクリン・キーリング著
『Gruesome Harvest』(邦訳『陰惨な収穫』)は、
多数の公式声明と
主要メディアの報道を集めたもので、
連合国占領下の
ドイツの最初の数年間について、
おおむねこれとまったく同じ構図を裏付けている。

1970年代から1980年代にかけて、
ハーバード大学で法学博士号を取得し、
歴史学の博士号を取得した
ルフレッド・M・デ・ザヤスは、
この悲惨なテーマを取り上げ、
国連に長く所属する国際人権弁護士として、
長く輝かしいキャリアを積んだ。

彼の著書『ポツダムの宿敵』、
『恐るべき復讐』、
ドイツ国防軍戦争犯罪局、
1939-1945』などは、
特にドイツ少数民族の大規模な
民族浄化に焦点を当て、
膨大な資料調査に基づいている。

これらは学術的に高い評価を受け、
主要な学術雑誌で注目され、
ドイツやヨーロッパの他の地域では
何十万部も売れたが、
アメリカやその他の英語圏の人々の
意識にはほとんど浸透しなかったようだ。

1980年代後半、
このくすぶっていた歴史論争に
驚くべき新展開があった。

1986年、関連書籍の準備のために
フランスを訪れていたカナダ人作家
ジェームズ・バックは、
戦後ドイツの最も恐ろしい秘密のひとつが
長い間完全に隠されたままであったことを
示唆する手がかりを偶然発見し、
すぐにこのテーマに関する広範な研究に着手し、
最終的に1989年に
『Other Losses』を出版した。

彼は、政府の記録、個人的なインタビュー、
記録された目撃証言など、
非常に多くの証拠に基づき、
終戦後、
アメリカ軍が意図的な政策行為として、
100万人ものドイツ兵捕虜を
餓死させたと主張した。

クレムリン公文書館
新証拠に関するバックの議論は、
1997年に出版された続編
『罪と慈悲』(Crimes and Mercies)の
比較的小さな部分を構成している。

上述のように、
ゴランツやアトリーのような1947年と
1948年の戦後ドイツを直接観察した人々は、
彼らが発見した
恐ろしい状況について直接報告し、
何年もの間、
全人口に対する公式の食糧配給は
ナチス強制収容所の収容者に
匹敵するものであり、
時にははるかに低いものであったため、
栄養失調と病気が蔓延し、
彼らの周囲で目撃されるようになったと述べている。

彼らはまた、
ドイツの戦前の住宅ストックの大半が破壊され、
中欧や東欧の他の地域から追放された
哀れなドイツ民族の難民が
何百万人も押し寄せたために、
深刻な過密状態が生じたことにも気づいた。

しかし、これらの訪問者たちは、
確かな人口統計に
アクセスすることができず、
飢えと病気がすでに与えた甚大な人的被害、
そして、政策を速やかに変更しなければ
確実に続くであろう人的被害について
推測することしかできなかった。

バッケによる長年のアーカイブ研究は、
この疑問に答えようとしている。
連合国軍政府も、その後のドイツ文民当局も、
1945年から1950年にかけて
ドイツ市民が被った災厄の本当の規模を隠そうと、
あるいは曖昧にしようと総力を挙げたようである。

バッケは、これらの数字が、
長い間「飢餓の年」
(Hungerjahr)として記憶され、
Gollanczの記述に生き生きと描かれている
1947年のひどい状況下での死亡率が、
実際には1960年代後半の
繁栄したドイツよりも低かったことを
示唆していると指摘している。

さらに、アメリカ政府高官による
私的な報告書、個々の地方の死亡率、
その他の有力な証拠は、
長い間受け入れられてきたこれらの総数が
本質的に虚構であったことを示している。

その代わりに、バッケは、
ドイツの各種国勢調査の人口合計と、
記録された膨大な数の
ドイツ人難民の流入をもとに、
より現実的な推計を試みている。

この単純な分析を適用すると、彼は、
この時期のドイツ人の超過死亡者数は
少なくとも約1000万人、場合によってはそれ以上の
何百万人にものぼるという、
それなりに強力な根拠を提示する。

さらに彼は、
飢餓が意図的なものであったか、
少なくともアメリカ政府の
海外食糧援助活動への抵抗によって
甚だしく悪化したものであったという
実質的な証拠を示している。

モーゲンソー計画の公式見解では、
約2000万人のドイツ人抹殺が想定されており、
バッケが示すように、アメリカの指導者たちは、
理論的にはその政策を放棄しながらも、
実際にはその政策を継続することに
静かに同意していたのである。

この数字が少しでも正しいと仮定すれば、
その意味するところは極めて注目に値する。

戦後ドイツが経験した人的大災害の犠牲者は、
間違いなく平時の近代史上最大級のものとなり、
1930年代初頭の
ウクライナの飢饉で発生した死者を
はるかに上回り、
おそらくは1959年から61年にかけての
毛沢東の大躍進で発生した、
まったく意図的でなかった
犠牲者にさえ近づくだろう。

さらに、戦後のドイツの犠牲者は、
パーセンテージで言えば、
これらの不幸な出来事のいずれをも
大きく上回るだろう。

しかし、この甚大な人的被害を
知っているアメリカ人は、
全体の1%にも満たないのではないだろうか。

おそらく、ドイツ国内での記憶は
はるかに強固なものだろうが、
あの不幸な国で不和な意見に対する
法的取り締まりが強化されていることを考えると、
この話題についてあまり精力的に論じる者は、
即座に投獄される危険性があるのではないだろうか。

このような歴史的無知は、
かなりの程度、政府によって助長されてきた。
衰退した旧ソ連と同じように、
現在のアメリカ政府と
そのヨーロッパのさまざまな属国の
政治的正当性の多くは、
第二次世界大戦に関する
特定の物語史の上に成り立っており、
その説明に異議を唱えることは、
政治的に悲惨な結果をもたらすかもしれない。

バッケは、
主要な新聞や雑誌が
彼の処女作の驚くべき発見を論じる記事を
掲載するのを阻止し、
メディアによる報道を絶対に
最小限に抑えることを目的とした
 "ブラックアウト "を課した、
明らかな努力の一端を信憑性をもって語っている。

8、9年前まで、
私はこの衝撃的な考えを一言も
耳にしたことがなかったし、
過去30年間注意深く読んできた
数多くの新聞や雑誌の中で、
真剣に議論されているのを
見たこともなかったからだ。

戦闘が終わった後、
ドイツ民間人の間にこのような
莫大かつ意図的とも思える
死者を生み出した政治的要因を評価する上で、
重要な点を指摘しておかなければならない。

ヒトラーのとてつもない邪悪さを
実証しようとしたり、
第二次世界大戦の過程で行われた
さまざまな犯罪をヒトラーが知っていたことを
示唆しようとしたりする歴史家たちは、
何万というヒトラーの活字をふるいにかけて、
あちこちに示唆的なフレーズを探し出し、
そのあいまいな暗示を
絶対的に決定的な宣言文として
解釈せざるを得ないのが常である。

英国の著名な歴史家
デイヴィッド・アーヴィングのように、
言葉を引き伸ばすことに失敗した者は、
結果としてキャリアを失うことになる。

しかし、早くも1940年には、
セオドア・カウフマンという
アメリカ人ユダヤ人が、
ヒトラーによるドイツ系ユダヤ人への
虐待とみなされる行為に激怒し、
『ドイツは滅びるべし!』と題する
短い本を出版した。
そしてその本は、
ニューヨーク・タイムズ』紙、
ワシントン・ポスト』紙、
『タイム』誌など、
おそらく最も権威あるメディアの多くで、
まったく真剣ではないにせよ、
好意的な論評を受けたようだ。

アメリカが実際に軍事衝突に参加する以前から、
ある方面ではそのような感情が
自由に表明されていたのだとしたら、
おそらくバッケが暴いたと思われる
長い間隠されていた政策は、
我々にとってそれほどまったく
衝撃的なものではないはずだ。

https://www.unz.com/runz/american-pravda-post-war-france-and-post-war-germany/