マンハッタン計画の成果:広島への原子爆弾投下では民間人を生きたまま焼いた

原爆秘史:究極の恐怖兵器の開発と配置②

https://modernhistoryproject.org/mhp?Article=AtomicHistory
-- 原題:Eustace Mullins, 1998-06Eustace Mullins, 1998-06, ソース: whale.to

ユースタス・マリンズ著

https://archive.org/details/the-secret-history-of-the-atomic-bomb-eustace-mullins

広島の恐怖

世界中に新たな恐怖政治を開始しようと
計画していた共謀者たちにとって、
不安な瞬間はまだたくさんあった。

日本は平和を求めて訴えていた。
日に日に日本が戦争に留まる可能性は
低くなっていった。

https://youtu.be/ZdAvWfVD5Fk

1945 年 3 月 9 日と 10 日、
325 機の B-29 爆撃機が東京の 
35 平方マイルを焼き払い、
その後の火災嵐で 
10 万人以上の日本人が死亡しました。

日本の大都市66都市のうち、
59都市がほぼ破壊された。
都市部の住宅178平方マイルが焼失し、
50万人が火災で死亡し、
現在2,000万人の日本人がホームレスとなった。

破壊されなかったのは4つの
[主要な]都市だけでした。

広島、小倉、新潟、長崎。
住民は、自分たちの町が原爆実験の標的都市として
保存されていたとは全く知りませんでした。

レスリー・グローブス少将は、
バーナード・バルークの主張を受けて、
京都を原爆の最初の目標とするよう要求した。

スティムソン陸軍長官は、
日本の古都である京都府には
数百の歴史ある木造寺院があり、
軍事目標はないと述べて反対した。

ユダヤ人たちは、まさに日本人にとって
文化的に非常に重要な場所だからこそ、
それを破壊したかったのです。

広島の住民は、爆弾を投下することなく
B-29が上空を飛行するのを眺め続けていたが、
科学者たちが彼らに予見していた
恐ろしい運命についてはまったく知らなかった。

ウィリアム・マンチェスターは、
アメリカン・シーザー』の中で
ダグラス・マッカーサー将軍を引用しています。(p.437)

マッカーサーはその存在を疑っていた
数少ないアメリカ人の一人だった。
彼は国防総省国務省に、
融和的なジェスチャー
警戒するよう促し続けた。
マッカーサー元帥は、
融和は日本軍ではなく、
東京からやってくるだろうと予測していた。
将軍は正しかった。
1945年春には、
交渉による和平が日本の苦悩を終わらせる
唯一の方法であると結論づけていた
裕仁自身がその筆頭であった。
5月初旬から、日本の外交官からなる
6人の会議が連合国側を受け入れる方法を探った。
代表団は軍幹部に
「我々の抵抗は終わった」と伝えた。

ガー・アルペロウィッツは
准将の言葉を引用する。
1945 年の MAGIC 概要の作成を担当した
カーター W. クラーク将軍は、
1959 年の歴史的インタビュー (p.359) で
次のように述べています。

「我々は商船の沈没の加速と飢えだけで
彼らを悲惨な降伏に追い込んだが、
それをする必要がなく、
またその必要がないことがわかっていたとき、
我々は彼らを原子爆弾2発の
実験台として利用した。」

ガー・アルペロウィッツは、196ページで
「バーンズは、中間委員会の審議において、
原爆に関連するすべての事柄について、
アメリカ大統領を代表して、
その権威をもって発言した。」と述べている。

デビッド・マッカローは、
"バレンタイン "と評された
トルーマン称賛伝の中で、
トルーマンは自分の国務長官
ステティニウスを知らなかった」
と認めている。
彼には外交政策の素養がなく、
専門家のアドバイザーもいなかった。」

トルーマン大統領は、
爆弾投下の決定において
自分自身が唯一の権限であると述べたが、
実際には、
彼はワシントンのバーナード・バルークの部下、
ジェームズ・F・バーンズに
完全に影響を受けていた。

広島と長崎の悲劇は、
弱く経験の浅い大統領が
完全にバーンズとバルークの影響下にあり、
恐るべき虐殺を実行するよう
操られることを許したことであった。
ヒロシマの影』の序文では、
トルーマンは主にバーンズの影響下で
全く逆の方向に進んでいた。
バーンズにとっての原爆は外交、
つまり原子力外交の手段だった。」
と書かれている。

大量殺人の目撃者

1945 年 8 月 6 日、
爆発効果を最大限に高めるために、
威力 20 キロトンのウラン爆弾 U-235 が
広島上空 1850 フィートで爆発しました。

それは4平方マイルを破壊し、
255,000人の住民のうち140,000人が死亡した。
ヒロシマの影』には、
犠牲者の一部を治療した医師、
肥田舜太郎医師の次のような陳述がある。

「B29爆撃機が毎日
広島の上空を飛んでいたにもかかわらず、
広島が一度も爆撃されたことがなかったのは
不思議だった。
戦後になって初めて、
アメリカの公文書によれば、
広島は核兵器使用の標的として温存するため、
手つかずのままだったことを知った。
おそらく、もしアメリカの政権と軍当局が、
人類が発見したにもかかわらず、
その結果についてほとんど知らなかった
この火のような悪魔の恐ろしい性質に
十分な注意を払っていたなら、
アメリカ当局は、最終的に
その犠牲者となった75万人の日本人に対して、
このような兵器を使用することは
なかったかもしれない(p.415)。」

http://hirosima-rikugun-ireikai.com/226/

肥田医師は、
ひどく引き裂かれ火傷を負った
被害者の治療中のことを語った。
「私の目は涙であふれそうだった。
私は自分に言い聞かせ、
泣かないように唇を噛んだ。
もし泣いてしまったら、
立ち続け、広島の瀕死の犠牲者を
治療し続ける勇気を失っていただろう。」

https://youtu.be/8Fl_Pj9Bt20

[同様に]大江健三郎はこう宣言する、
「原爆が爆発した瞬間から、
それは人間のあらゆる悪の象徴となった。
それは野蛮な原始的な悪魔であり、
最も現代的な呪いだった。
……私の悪夢は、
「ある種の悪夢」という疑いから生じている。
 「人間の力への信頼」または
ヒューマニズム」が、
広島への原爆投下で終了する計画を決定した
アメリカの知識人の脳裏をよぎった。」(p.433)

事前警告なし

ヒロシマの影』の序文にはこうある:

「広島の神話の一つは、
原爆が投下されることを住民が
ビラで警告されたというものである。
レナード・ナドラーと
ウィリアム・P・ジョーンズが、
1960年と1970年に広島原爆資料館
見たと記憶しているビラは、
原爆投下後に投下されたものである。

このようなことが起こったのは、
大統領の原爆に関する暫定委員会が
5月31日に
『日本人に警告を与えることはできない』
と決定したからである。

さらに、日本の都市に
「原爆」ビラを投下することが決定されたのは、
広島に原爆が投下された翌日の
8月7日だった。
原爆ビラが投下されたのは、
長崎に原爆が投下された後の8月10日である。

https://www.dailyshincho.jp/article/2021/08310557/?all=1&page=2

広島の住民は、
原爆投下について何の
事前警告も受けていなかったと言える。

1945年6月1日、
いわゆる中間委員会の会合で、
特定の標的都市の住民に
警告しないことが正式に決定された。
ジェームズ・バーンズオッペンハイマーは、
原爆は事前の警告なしに
使用されなければならないと主張した。

"原爆攻撃の警告が
標的都市の一般住民になされたかどうか
という問題と密接に結びついているのが、
アメリカのヒロシマ伝説を支える
第三の「第五の条項」である。

広島には日本第二軍の司令部があり、
約2万人の兵士がいた。
長崎では約150人の軍人が死亡した。
つまり、両市の死者数の
4.4%は軍関係者であった。
つまり、犠牲者の95%以上は
民間人だったのである。"

ヒロシマの影』の39ページには、
(広島では)「厳密には軍事的被害は
取るに足らないものだった」とある。
この記述と、ハリー・トルーマン
『Off The Record:ハリー・S・トルーマンの私文書』p.304の
「1945年、私は日本に原爆を投下するよう命じた。
実際、広島の死傷者の何千人かは、
教室で座っていた子供たちだった。

100万人の命?

https://youtu.be/7TStzOpOLPU

原爆が投下されたのは
マンハッタン計画の管理者たちは、
原爆を使うよう働きかけていた。
バーンズはこれらの会議に同席していた。
原爆の使用で100万人の
アメリカ人の命が救われるという主張の主は
グローブス将軍であったようだ。
(『ヒロシマの影』35ページ)

トルーマン自身は、
原爆の使用が
 "25万人アメリカ人の命 "を救った、
"50万人アメリカ人の命 "を救った、
と様々に述べたが、
最終的にはグローブス将軍の言う
 "100万人アメリカ人の命が救われた "
という数字に落ち着いた。

一方、「原爆広報担当」として
陸軍省から給料を全額受け取りながら、
ニューヨーク・タイムズ紙に
原稿を書いていた
ウィリアム・L・ローレンス氏は、
ニューヨーク・タイムズ紙に、
広島原爆の犠牲者に
放射線の影響があったことを
否定する記事を数本掲載した。
(1945年9月5日他)
その中で、彼はグローブス将軍の
憤慨したコメントを引用している。(p.64)

「日本人は、我々が不当に
戦争に勝ったという印象を植え付け、
自分たちに同情的な態度を取ろうとする
プロパガンダをいまだに続けている。(p.64)」

「1945年8月11日、スイス公使館は
東京から国務省に次のようなメモを送った
国務省はこのメモを25年間放置した後、
ようやく公開した):
スイス公使館は
日本政府からの通信を受け取った。
1945年8月6日、
米軍機が広島市の住宅街に新型爆弾を放ち、
多数の市民を一瞬にして殺傷し、
町の大部分を破壊した。

広島市は、いかなる保護も
特別な軍事施設もない
地方都市であるばかりでなく、
近隣の地域や町も
軍事目標にはなっていない。(p.66)。」

空軍が長崎に原爆を投下したとき
[その3日後]、
ウィリアム・ローレンスは
ストレンジラブ博士になりすまし、
B29の副操縦士席に座っていたが、
ここでも主な標的はカトリック教会であった。

ウィリアム・クレイグ著『日本陥落』
(p.93)にはこうある:
カトリック聖堂の屋根と石組みが、
ひざまずいていた信者の上に落ちた。
全員が死んだ。
この教会は現在再建され、
長崎観光の目玉となっている。」

https://www.nagasaki-np.co.jp/peace_article/2262/

ヒロシマの影』の序文はこう結んでいる:
「原爆の使用なしに
日本本土への侵攻が必要だったという主張は
真実ではない。
広島の市民に "原爆警報 "が出された
という主張は真実ではない。
両市が重要な軍事目標であったという主張も
真実ではない。」(p.lxvii)