広島へのカウントダウン、 1945年7月25日:トルーマン、 スターリンに原爆について語る

http://gregmitchellwriter.blogspot.com/2013/07/countdown-to-hiroshima-assembling-gadget.html

私は毎年夏になると、
日本への原爆投下(1945年8月6日と8月9日)
までの日数をカウントダウンし、
1945年の同じ日に起こった出来事を記録している。  

私はこのテーマで3冊の本を書いた:  
ヒロシマイン・アメリカ
(ロバート・ジェイ・リフトンとの共著)、
『アトミック・カバー・アップ』
(原爆投下都市で撮影された
衝撃的なフィルムが、
米軍によって何十年にもわたり
抑圧されたことについて)、
『ハリウッド・ボム』
(1947年にMGMが制作したドラマが、
いかにして軍とトルーマン自身によって
検閲されたかという荒唐無稽な物語)である。

7月25日:まだポツダムにいたトルーマンは、
この日の日記に次のように書いている。  

当時、標的都市に住んでいた市民の大半が
女性と子供であったことを
彼は知っていたのだろうか、
それとも彼は自分自身と歴史に
嘘をついていたのだろうか?   

「我々は世界史上最も恐ろしい爆弾を発見した。
それは、ノアと 
その素晴らしい箱舟の後に、
ユーフラテス川流域時代に予言された
火による破壊かもしれない。  

いずれにせよ、私たちは
原子の崩壊を引き起こす方法を見つけたと
『考えている』。

ニューメキシコの砂漠で行われた実験は、
控えめに言っても驚くべきものだった。

「この兵器は今から8月10日までの間に
日本に対して使用される。
私はスティムソン陸軍長官に、
女性や子供ではなく、
軍事目標や兵士や水兵が標的になるように
使用するように言ってある。
たとえジャップが野蛮で、冷酷で、
情け容赦がなく、狂信的であったとしても、
共通の福祉のために
世界のリーダーである我々は、
旧都や新都にあの恐ろしい爆弾を
投下することはできない。

「彼と私の意見は一致している。
目標は純粋に軍事的なものであり、
ジャップに降伏して
命を救うよう求める警告声明を発表する。
彼らが降伏することはないだろうが、
我々は彼らにチャンスを与えたことになる。
ヒトラーの群衆やスターリン
原爆を発見しなかったことは、
世界にとって良いことだ。
これまで発見された中で
最も恐ろしいもののように思えるが、
最も有用なものにすることができるのだ。」
注:「軍人」の死傷者は、
広島では約10%、長崎ではせいぜい
1%に過ぎない(アメリカ人捕虜を含む。)

7月24日ポツダムトルーマン
スターリンに原爆の存在を公表
スターリンはすでに原爆の存在を
スパイによって知らされていた可能性がある)

10年後の回顧録の中で、
トルーマンはこのことを簡潔にこう語っている: 
 「7月24日、私は何気なくスターリンに、
われわれには並外れた破壊力を持つ
新兵器があることを話した。

ロシア首相は特別な関心を示さなかった。
7月24日、私は何気なくスターリンに、
われわれには並外れた破壊力を持つ
新兵器があることを話したが、
ロシア首相は特に興味を示さなかった。

その場にいたアメリカ政府関係者は、
スターリンが将来の世界情勢における
新兵器の重要性を把握できなかったと
主張するだろう。  

しかし、スターリン党のソ連高官は後に、
スターリンはすぐに科学者たちに
自分たちの兵器の研究を
加速するよう命じたと主張した。  

この話を目撃したチャーチル
その他の人々の見解を参照。

グローブス将軍は、
爆弾の入手可能性と天候が許す限り、
直ちに原爆の使用を
許可する指令書を起草する。

この指令は、広島、小倉、新潟、
長崎の順で標的を挙げている。

この指令は原爆攻撃の最終的な承認であり、
それ以上の命令は出されていない。  

実際、トルーマンが日本に対して
2発目の原爆を使用するという
命令を下すことはなかった。  

1945年7月23日:  
さらに解読された電報や報告によると、
「無条件降伏」が修正され、
象徴的指導者として
天皇を維持できるようになれば、
日本軍はまもなく降伏する可能性が高い。  
アメリカはポツダム宣言
その可能性を否定するが、
原爆投下後はそれを容認する。

トルーマンポツダムに来たのは、
主にロシアに8月上旬に対日参戦するという
約束を守らせるためであり、
トルーマンはそれが
「フィニ・ジャップ」を
意味すると考えていた。  

しかし、トリニティの後、
スティムソンは今日の日記に、
彼とジョージ・マーシャル元帥は、
「今、我々の新しい武器があれば、
日本を征服するために
ロシアの援助は必要ない」
と信じていると書いている。  

そこで彼は、
原爆使用の可能な限り
早い時期についての情報を再度求めた。

太平洋のテニアンでは、
爆薬を使用しない最初の爆弾部隊が
試験的に投下された。  
一方、600機の爆撃機が通常兵器なしで
大阪と名古屋を爆撃する準備を整える。

1945年7月22日:  
ポツダムでスティムソンはチャーチルと会談。
チャーチルは、
トルーマンが突然スターリンに対して
いじめに近い強硬な態度(下記参照)
に転じたことに困惑したが、
原爆実験の成功を知ってからは理解し、
賛同したと言う。   

また、都市に対する原爆使用の
「前倒し」スケジュール
(第1弾は8月6日ごろ、
第2弾は8月24日ごろまでに準備完了)にも、
誰もが喝采を送った。  
スティムソンは日記の中で、
2人のトップが京都を
ターゲットリストから外したことを
支持していると記している。

米国は「マジック」の傍受によって、
日本がソ連に特別使節を派遣し、
できるだけ早く米国との
和平を仲介させようとしていることを知る
(彼らはロシアが2週間後に
宣戦布告する準備をしていることを知らない)

1945年7月21日:  
スティムソンは日記の中で、
グローブス将軍の
トリニティ実験成功の報告を読んだ後、
ポツダムトルーマン
面会したことを語っている。  

彼はトルーマンがこの実験によって
「新たな自信」に満ち溢れ、
非常に「活気づいた」ことを知る。  
後述するように、この
「トリニティ・パワーの急上昇」が、
トルーマンを、
ロシアが8月7日頃に参戦する予定であったため、
それ以上の反省をすることなく、
できるだけ早く新兵器を使用するよう
後押ししたのである。  
トルーマンはまだスターリン
原爆の存在を伝えていない。

注:グローブスの長いメモには、
近隣の住民への放射線の影響について、
一般的にはうんぬんされていたが、
次のような記述があった:  
「少量の放射性物質
120マイルも離れた場所にあった。
少量の放射性物質
120マイルも離れた場所にあった。
将来のクレームに備え、
政府の利益を守るための
十分なデータを得るため、
測定は続けられている。

数時間、私はこの状況に
あまり納得がいかなかった。

1945年7月20日:  この日
(1日後だったかもしれない)、
スティムソン陸軍長官は
ドイツで複数の米軍トップ将兵と会談した。   

ドワイト・D・アイゼンハワー元帥は数年後、
ニューズウィーク』誌にこう書いている:  

 「ドイツにある私の司令部を訪れた
スティムソン陸軍長官は、
政府が日本に原爆を投下する
準備をしていることを私に伝えた。
私は、そのような行為の賢明さを
疑問視する多くの理由があると感じていた
一人であった。

...長官は、ニューメキシコでの原爆実験成功と
原爆使用計画のニュースを私に伝えると、
私の反応を伺い、
どうやら力強い同意を期待しているようだった。   

その理由は、第一に、
日本はすでに敗北しており、
原爆投下はまったく不要であるという
信念に基づいていたこと、
第二に、アメリカ人の命を救うための
措置としてはもはや必須ではないと
思われる兵器の使用によって、
わが国が世界世論に衝撃を与えることは
避けるべきだと考えたからである。
 
日本はまさにその瞬間、
『面目』を最低限に保ちながら
降伏する方法を模索していると私は考えていた。
長官は私の態度に深く動揺していた。」

1945年7月19日:  
レスリー・グローブズ将軍の
トリニティ実験に関する劇的な報告書が、
ヘンリー・スティムソン陸軍長官の   
机の上に置かれる。  
砂漠で閃光を目撃した
ニューメキシコとラスベガスの住民
(何人かは放射線を浴びた)は、
まだ暗闇の中にいた。

中間委員会は
ターゲットリスト(順番)を決定:  
広島、小倉、長崎である。  
広島、小倉、長崎の3都市は、
日本の大都市の中で、
まだ原爆投下によって
壊滅的な打撃を受けていない
数少ない都市であることが最優先された。   

原爆が各都市の中心部に
投下されるのもそのためである。  
広島は、三方を丘に囲まれているため、
爆風を都市に跳ね返し、
さらに多くの犠牲者を出す
「集束効果」があるという「利点」もある。  

当初の目標リストにあった京都は、
歴史的で美しい都市を愛する
スティムソンの訴えで除外された。

1945年7月18日:   トルーマン
ポツダムスターリンと会談し、
スターリンが「ダイナマイト」を
いくつか持っていることに触れたが、
トルーマンもまた、
まだ明らかにしていない「ダイナマイト」
--すなわち原爆--を持っていた。

しかし、彼の日記には、
最も明らかにされ、最も議論された、
原爆投下前のコメントの一つも書き込まれている。  

スターリンが予定通り
8月初旬に日本に宣戦布告することを
確約したことに触れた後、
トルーマンはこう書いている。  

これは、トルーマンが、
日本が恐れていたソ連の参戦が、
原爆を必要としない
日本の降伏をすぐに
引き起こすことを知っていたことを示唆している。  

そのため、一部の歴史家は、
ソビエトに多くの領土を獲得させないため、
そして新兵器に費やした
巨額の資金が必要であったことを示すために、
トルーマンは原爆を、
できるだけ早く使用する
決意を固めただけだと非難している。

後日の日記でトルーマンは、
ロシアが宣戦布告する前
と述べている。  

それ以前にトルーマン
ベルリンを視察しており、
その日記の中で、
民間人の完全な破壊と
その影響について述べている。   

スミソニアン博物館での
エノラ・ゲイの展示に対する
1995年の私の抗議については、
The Nationに掲載された
私の新しい記事を参照されたい。

1945年7月17日:   
スティムソン陸軍長官は日記に、
ポツダムにいるトルーマン大統領に
実験成功の極秘メッセージを伝え、
大統領はそれを「喜んでいる」と書いている。  

これでトルーマンは、 
スターリンに対して本当に
タフになれると感じるだろう
--ロバート・リフトンと私は本書で
「三位一体のパワー・サージ」
と呼んでいるが--。  
トップ科学者による実験の目撃証言はこちら。

米国が広島上空を通過する爆風に
驚くだろうと考える人は、
その威力と放射線の危険性を
考慮するかもしれない:  

「ゼロ地点から800ヤード以上離れた場所で、
内臓を抜かれた
野生のジャックウサギの死骸が発見された。
マイル離れた農家では、
ドアが引きちぎられ、
その他にも甚大な被害が出た。」

爆撃隊が日本の目標上空で飛行訓練を開始。

1945年7月16日:  
ニューメキシコ砂漠での
トリニティ実験によって、
核の時代が今朝始まった。  

オッペンハイマー
「私は死となり、世界の破壊者となる」
という有名な言葉を口にした。   
全文はThe Nationを参照。  

1945年7月15日:  
トリニティで初の極秘実験が行われる。   
周辺住民に放射性物質の雲について
警告する計画はほとんどなかった。

トルーマンポツダムに向かい、結果を待つ。  

一方、オークリッジの科学者たちは、
原爆の使用を再検討するよう
トルーマンに求める
レオ・シラードの嘆願書に署名する
(下記参照)。   

しかし、彼らは少し条件を変え、
次のように述べている: 
  「我々は、特に都市に対する原子爆弾の使用を、
最高責任者として
以下の条件下でのみ許可するよう、
謹んで請願する:  

1.1.日本人が祖国での
平和的発展の可能性を保証する条件で
降伏する機会が与えられたこと。  

2.降伏を拒否した場合、
新兵器が使用されるという
説得力のある警告がなされていること。  

3.原爆使用の責任は同盟国と共有する。

1945年7月13日:  
「ガジェット」は
トリニティの起爆塔の上に慎重に設置され、
最初の原爆実験の準備はほぼ整ったが、
雷雨の予報。

ワシントンは、
日本の東郷茂徳外務大臣から
モスクワ大使に送られた
「無条件降伏は平和への唯一の障害である」
という電報を傍受、解読する。
 
ジェームズ・フィレスタル海軍長官は  
日記にこう書いている:
「東郷外務大臣から
佐藤駐モスクワ日本大使宛の
電報を傍受したところ、
日本が戦争から抜け出したいと
考えていることを示す最初の証拠が得られた。

東郷外務大臣は、
ビッグスリーの会合に出発する前に、
可能であればモロトフに会うよう指示し、
もしそうでなければ、その直後に、
戦争を終結させたいという
天皇の強い希望を伝えるよう指示した。

1945年7月12日  
ウォッシュ・ポスト紙の見出し:
  "アメリカは日本の和平フィーリングを一蹴"  
実際、トリニティでの原爆実験の
(おそらく)初成功を待って、
このような事態となった。   

アメリカは "無条件降伏 "を
要求していたが、
日本側は一つの大きな条件を付けていた。  

アメリカはこれを断固として拒否した
(1ヵ月後、2つの新兵器が使用された後、
自国の目的のためにそれを受け入れ、
それでも降伏を「無条件」と呼ぶことになる)

1945年7月11日:   
トルーマンスターリンチャーチル
会談するためポツダムに向かい、
そこで日本降伏の最終通告を行う予定だった。   

しかしトルーマンは、
天候がよければ数日後に予定されている
新兵器の最初の実験で
新兵器が機能するかどうかの
報告を待っていた。  

原爆を使用する最初の標的は2つ選ばれていた。
これまで爆撃されたことのない
日本の大都市2つで、
専門家が新型爆弾の威力を
評価することができる。   

原爆は、同じ理由から、
主に女性や子供が住んでいる都市の
中心部に投下されることになる。

科学者たちによって「ガジェット」
と呼ばれた最初の原子爆弾の組み立ては、
ニューメキシコ州アラマゴード近郊の
砂漠にあるトリニティ実験場で、
爆発レンズ、ウラン反射鏡、
プルトニウムコアの設置から始まった。  

https://youtu.be/uW2clYJmvhE