19世紀後半スイスにおけるユダヤ教の屠殺方法・シェヒターの禁止①

同志社大学 グローバル地域文化学部 グローバル地域文化学科 准教授

 

穐山洋子氏の論文です。

19世紀後半スイスにおけるユダヤ教の屠殺方法・シェヒターの 禁止——— 動物保護協会の活動と会員の社会構成を中心に①

http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es12_akiyama.pdf

 

はじめに

スイスでは、1893年ユダヤ教の屠殺方法である
シェヒターの禁止を要求するイニシアティヴ(国民発議)が国民投票により可決され、
シェヒター禁止が連邦憲法に規定された。

このイニシアティヴを提起したのは、 
協会設立時からシェヒターを動物虐待として問題視していたドイツ語圏動物保護協会であった。

屠殺の問題が連邦憲法に規定されるという特異な事例のため、
1893年のシェヒタ一禁止はこれまで多くの法学研究や歴史学研究の対象となってきた。

従来の研究の ほぼ一致した見解では、その要因として当時特にドイツ語圏に広まっていた反ユダヤ主義の影響が指摘されている。

この論拠は、シェヒターというユダヤ教の屠殺方法が禁止されたということ、
そしてドイツ語圏のカントンが圧倒的に賛成した投票結果によって裏付けられているだろう。 

しかし、なぜスイスにおいてシェヒターが、 
19世紀半ばから繰り返し問題視され、
最終的に「ユダヤ人という少数派の統合問題のみならず、 
憲法で保障された同権と信教の自由に関する解釈をめぐる広範な憲法 議論の結晶点にまでなった」のか、
さらに、なぜ国民投票において国民とカントンの半数以上の支持を得ることが可能だったのか、
という問いに、反ユダヤ主義という論拠だけでは不十分ではないだろうか。 

「永遠の反ユダヤ主義」という概念だけで説明してしまうのではなく、
反ユダヤ主義の背景にある要因にも目を向ける必要が あるだろう。

ユダヤ人解放後の19 世紀後半に、 
既存の主に宗教に根差したユダヤ人嫌(Judenfeindlichkeit)と折り重なるように誕生した
近代的反ユダヤ主義 (Antisemitismus)は多くの政治運動に利用され、様々なイデオロギーと結びついて いた。

結論を先取りすれば、動物保護協会のシェヒター禁止を求める運動は、
自分たちにとって異質な文化 (宗教行為)を排除することで、
いうところの「スイスの文化」を守り、
同質なネーションを求めるナショナリズム運動とも解釈することが できるのである。

「同質なネーション」 という概念は、多言語、多文化主義を標榜し、 
スイス国民でありたいという意志がネーションを形成する、というスイスのネーション理解とは矛盾している。 

しかし、スイスネーションの特徴は、それが「我々」 と「他者」、「同胞」と「よそ者(敵)」、
「同質」と「異質」の境界線によって決められ、
その境界線の外側に位置するとされたものを激しく排除する一方で、
その内部の同質性ついては厳密に問うことない点である。 

動物保護協会は、シェヒターを異質な文化として排除することで、 
「スイス的な価値観や世界観」を確認し、 共有を求めようとしていたのである。

つまり、シェヒター禁止を求める運動とその受容の背景には、
純粋な動物保護思想、 反ユダヤ主義、 そしてナショナリズムの3つの要素 が密接に関係していたといえるのである。

本稿の目的は、 このような背景をもつシェヒター禁止運動がどのような組織、
さらにはどのような社会階層に属する人びとにより展開されたのかを明らかにするこ とである。 

そのために、まずスイスにおけるユダヤ人とシェヒター問題の歴史を概観し、 
次にシェヒター禁止運動の担い手であった動物保護協会、 
特に中心的な存在だったベルン、チューリヒ、アールガウの各協会の設立の背景、 
重点課題、会員の社会構成を考察する。 

その際、 特に各協会のシェヒター禁止に関する取り組みとイニシアティヴに至る歴史的経緯の特徴とその差異に注目する。 
従来の研究では、動物保護協会は、ほぼ同質な集団として捉えられており、
各協会の取り巻く社会環境、 取組課題、会員の社会構成の差異は十分考慮されていない。 

しかし、スイスの国家 のなりたちや地方分権の強い政治システムの影響を考えれば、
シェヒター問題のより深い理解には、個々の協会の状況の把握は不可欠である。

さらに本稿では、動物 保護協会の活動や会員の社会構成を踏まえ、
スイスの市民社会における協会の役割と社会的な位置付けの考察も射程に入れる。

1. スイスにおけるシェヒター問題

1.1.19 世紀スイスのユダヤ

スイスにおけるシェヒター問題の歴史を概観する前に、簡単にスイスのユダヤ人 について説明しておきたい。

1866年の連邦憲法改正により連邦レベルの定住の自由 が認められるまで、
ユダヤ人は、 当時盟約者団の共同支配地であった地方代官区バ ーデンの二つの村、
エンディンゲンとレングナウ ( 1803年からはカントン・アール ガウ)のみ定住が許可されていた。 

https://www.swissinfo.ch/jpn/society/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E5%95%8F%E9%A1%8C_150%E5%B9%B4%E5%89%8D-%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%B1%85%E4%BD%8F%E6%A8%A9%E3%82%92%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%8A%95%E7%A5%A8%E3%81%AB%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%9F%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9/41911222

だからといって、 その他の地域にユダヤ人が全くいなかったわけではない。 
1866年以前にも、外国で解放されたユダヤ人の往来や定住はスイス各地域で見られた。 
特に1791年に市民権を獲得したアルザスユダヤ人は、
スイス各地を往来し、 彼らと関係が深かったバーゼルをはじめ、
ベルンやフランス語圏の都市部に定住するようになった。

1850年に3145人であったユダヤ人は、 
ヨーロッパ各地のユダヤ人解放とその後のフランス、ドイツ、ハプスブルク帝国の 隣接する地域からの彼らの移住を通じて、 
シェヒター問題が動物保護協会によって 大きく取り上げられる 1888年には、8069 人に増加した。

動物保護協会が熱心にシェヒター禁止運動を展開したチューリヒ(1349人)、 
ベルン (1195人)、アールガウ (1051 人)はユダヤ人が多いカントンで、
ユダヤ人の存在とシェヒター禁止問題は密接な関係があるといえるだろう。

アールガウやベルンは元々ユダヤ人が多いカントンであったが、
チューリヒでは1850年から 1888年にかけて、 
国内外、 特に外国からユダヤ人が移住し、 その数は 16.8 倍に急増した。 

スイスのユダヤ人の特徴は、 帰化が簡単ではなかったため、 多くのユダヤ人が外国籍であったことである。

統計 が残っている 1910年には、 外国籍のユダヤ人の割合が全体の66%も占めていた。 
これは、「ユダヤ人はよそ者」であるという、 
多くのスイス人が持つ印象を裏付けるものである。

1.2. スイスにおけるシェヒター問題

スイスにおけるシェヒター問題は、その内容と形態により大きく2つの時期に分けることができる。 
一つは、ユダヤ人解放前の1850年代から1870年代の時期で、 
シェヒターを禁止しようとする試みは、散発的で、 
地域的に限定されていた。

ユダヤ人の定住が許されていたアールガウと、 
新たにユダヤゲマインデが設立された ザンクト・ガレンでシェヒター禁止が試みられたが、 
その要因はユダヤ人解放に対する嫌悪と不安であった。

もう一つが、 本稿で取り上げる、 動物保護協会が組織的かつ全国規模でシェヒタ一禁止運動を展開した 
1880年代後半から1890年代前半の時期である。 

地域的な運動から全国規模の運動に移行した背景には、連邦憲法で信教の自由が保障され、宗教行為を簡単に排除することができなくなったこと、 
また仮にカントンの憲法や法律でシェヒターが禁止されても、
ユダヤ人が連邦政府にその撤回を求める請願書を提出すると、
連邦政府がカントンの決定に介入するようになったことが要因として あげられる。

1.3. シェヒター問題と動物保護協会

動物保護協会は、 設立以来人道的な屠殺を行いたいという理由からシェヒターを問題視していた。 
動物保護協会は、1880年代初頭までは、 
新しく開発された屠殺器具の導入を通じて、間接的にシェヒターの禁止を試みたが、 
1880 年代半ば以降は、 事前の麻酔(殴打や射撃などによる) の義務付けを要求することで、
積極的かつ実質的にシェヒターを禁止しようとした130 1886年4月に動物保護協会中央理事会は、 
連邦レベルでシェヒターを禁止しようと、 内務省に全国での屠殺前の麻酔の義務付 けを要求する請願書を提出した。

動物保護協会は、 シェヒターをその準備行為も含 め明らかな動物虐待であるとしたうえ、
ユダヤ教の宗教行為ではないと主張した。
その一方で、地方協会はカントンレベルにおけるシェヒター禁止の要求も行ってい た。 

ベルンとアールガウで屠殺前の麻酔が義務付けられ、 
シェヒター禁止が決定されたが、ユダヤ側が憲法違反であるとして連邦政府に対して陳情書を提出した。

これによりシェヒター禁止の執行は、
1886年に中央理事会が提出した請願書に対して 連邦政府が回答するまで保留されることになった。
長期間の調査と審議の結果、 1890 年に連邦政府はシェヒターを宗教行為として認め、 
動物虐待ではないという見解を示した。

これを不服とした動物保護協会は、 連邦憲法でシェヒター禁止を規定しようと、
1891年に導入されたばかりの、連邦憲法改正のためのイニシアティヴの提起 を決定した。

動物保護協会が提出した憲法改正案は、
 「放血する前に事前の麻酔なしに動物を屠殺することは、いかなる屠殺方法と動物種において例外なく禁止する」というもので、
シェヒター禁止は明文化されていない。 

しかし、ユダヤ教が屠殺前の麻酔を禁じているため、事実上のシェヒター禁止を意味した。 
ベルン、チューリヒ、アールガウの各協会が集中的に署名活動を行い、
国民投票実現に必要な5万のうち約4分 の3の署名がこの3地域から集められた。

1893年8月20日国民投票で、 国民票では過半数を優に超える賛成が得られた一方で (賛成 191527 反対 127101)、
カントン票では僅差の賛成多数という結果であった (賛成11と1/2 反対 10 と 1/2) 

フランス語圏とイタリア語圏がそろって反対したのに対し、
ドイツ語圏、特にプロ テスタントのカントンが圧倒的に賛成した。
シェヒター禁止運動の中心地であったアールガウ、ベルン、チューリヒでは、特に賛成率が高く、 
彼らのキャンペーンの影響力を示している。 

しかし投票前に各新聞が集中的にシェヒター問題を取り上げ、 
市民の関心が高かったにもかかわらず、 投票率は50%以下と当時としては低い値にとどまった。

この背景として、ドイツのビスマルクの政策との類似性から、
「文化闘争」と呼ばれる抑圧策により宗教行為の制限を受けていたカトリック教会がシェヒター禁止を信教の自由の侵害だと捉え、 
有権者に対し反対するように呼びかけたものの、
多くのカトリック教徒が宗教的なユダヤ嫌悪との狭間でジレンマに陥り投票 行動に出なかったこと、 
また直接利害がないと捉えた有権者も積極的な投票行動に出なかったことが要因として考えられる。

 

②に続きます。

 

Yoko Akiyama

https://researchmap.jp/oetlis

 

シェヒター(シェヒーター)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%92%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC