19世紀後半スイスにおけるユダヤ教の屠殺方法 シェヒターの禁止②

19世紀後半スイスにおけるユダヤ教の屠殺方法 シェヒターの禁止 動物保護協会の活動と会員の社会構成を中心に

同志社大学 グローバル地域文化学部 グローバル地域文化学科 准教授

穐山 洋子氏の論文です。

 

原文

http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es12_akiyama.pdf

 

2. スイス市民社会と動物保護協会

2.1 スイス市民社会と市民結社

19世紀に市民社会における社交の新しい形態として、 
啓蒙時代にその起源をもつ市民結社(アソシエーション) が誕生した。

市民結社は19世紀を通じてより広い 社会階層に開かれ、 活動が多様化し、密度も濃くなり、 
19世紀末から20世紀初頭 に全盛期を迎えた。

こうした市民結社は読書やスポーツなどの目的を果たす場とし てだけではなく、
そこに集う人びと (市民 Bürger) の間で意見交換、議論、討議が おこなわれ、
その過程を通じて市民的公共圏の創出に貢献した。

しかし、19 世紀 前半では結社はまだ広い社会階層に開かれていなかった。 
このような社交の場への参加は、19 世紀前半までは「良い家柄」、資産、収入、教養などの基準によって決定され、

貴族などの上流階級や教養市民層に限られていた。

つまりこの時代の市民結社は、内部に対しては平等主義を謳っていたが、
外部世界に対してはエリート主義的で、
社会的な排他性をもっていたのである。 

また、この時代の結社は、階級的であるばかりか、
女性や宗教的少数派 (ユダヤ人)を排除している場合がほとんどであった。
19世紀中葉以降、社会構造、産業構造の変化に伴い中間層が拡大すると、
次第に多くの中間層が結社に参加するようになり、会員が増加した。

それに伴い、結社内部の平等性が失われ、 
徐々に内部にヒエラルキーが生まれ、
その組織が大きくなればなるほど、その傾向が強くなっていった。 

以下の動物保護協会の考察によって裏付けられるように、 
結社内の活動方針は、会員全員の討議によって決定されるのではなく、
一部の選出された上層部によって決められるようになっていったのである。

スイスでは政治と行政の職業化が進まず、
またその機能が強くないため、 公的事案の多くが協会、 団体、 組合などの結社にゆだねられている。

これらの組織は、文化的、宗教的、博愛的、公益的、愛国的、職業的など多種多様であり、 
国家や地方自治体が賄いきれない社会的機能を補完的に担っている。 

スイスには人口の割に多数の協会があり、
19世紀末には、地方の小さな組織を除いても約3万の協会が設立されていた。
特に1860年以降、協会の設立が相次ぎ、そのなかでも経済協会、職業協会、スポーツ協会の設立が顕著であった。

多くの市民が複数の協会の会員となり、協会を通じた人的ネットワークは幾重にも重なりあっていた。
19世紀末まで全 国規模の政党が設立しないスイスでは、協会は市民と国家の仲介役としての社会的機能を果たしていた。 

さらに、 協会は、 異なる社会階層間の仲介役として、文化的、 社会的社交生活において、
伝統的市民層と商人・農民層などの中間層の間や、
伝統 的市民層と小市民層の間を結ぶ役割も担っていた。 

後段で詳しく考察するが、 動物保護協会には伝統的市民層(上層市民層)と19世紀後半に勢力を拡大した中間層および小市民層(下層市民層)に属する人びとが会員となっていた。
動物保護協会と いう場(実際に直接会う必要性はない)に本来社会生活上あまり接点がない上層市民層と下層市民層が集い、
あるいは属することで、問題関心の共有や討議を通じて 共通の認識、価値観、世界観がうまれたのである。

動物保護協会は、シェヒター禁止に反対する連邦政府の意に反し、
イニシアティヴという直接民主主義的な手段を用いてシェヒター禁止を実現させた。

すなわち公的な議論や国家を巻き込むような事案が協会という自発的な組織においても提起されうることを示している。

このシェヒター禁止の事例から協会組織の機能に関して 以下の2点を確認することができる。
まず、市民は、協会活動を通じて、社会で発生した問題あるいは解決すべきと感じた問題の解決のために、
地方や連邦の政治に 影響を及ぼすことができた。 

つまり協会は市民と国家の仲介役の機能を持っていた。 次に協会組織は、単なる国家と市民の仲介役としての機能だけでなく、 
本来政党が持つような社会における世論形成あるいは世論指導者としての機能も持っていたのである。

2.2. スイスにおける動物保護協会

19世紀になるとヨーロッパ各国で動物保護思想が広まり、
動物保護協会が設立され、近代的な動物保護法が制定された。

スイスでは、1840年代からの40年間でほぼ全てのカントンで刑法による動物保護が導入され、
それと前後して各地に動物保護協会が設立された。

1844年のベルンを始めとして、計17の動物保護協会が 19 世紀末までに設立され、
その会員数は3000 を超えた。

設立当初は、多くの人が動物保護より人権擁護が優先されるべきと考え、 
動物保護思想は、 「教養市民層のとっぴな思想」だとして、あまり広まらなかったが、
19世紀末には文明化した民族の思想として浸透するようになった。

スイスの国家形態と同様、 動物保護協会は基本的に各地域協会が独立した活動を行っていた。
しかし、動物の鉄道輸送の問題など連邦レベルの対策が必要な事案に 関しては、
中央理事会の設立を通じて協力体制を構築し対応した。 

スイスの動物保護協会のうち特に活発に活動していたのは、 
ベルン, チューリヒ、アールガウの3 協会で、この3協会はシェヒター禁止運動でも推進的な役割を担った。

以下では、 各地域の社会的、政治的背景、ユダヤ人の状況を考慮に入れ、 
この3協会の設立の 歴史的背景、会員の状況、 主な取り組み課題、シェヒター問題とのかかわり方を中心に考察する。

2.2.1. ベルンの動物保護協会

ベルンは、1848年の連邦国家成立時に連邦内閣と連邦議会が設置されたことで事実上の首都となり、
同時に行政・官庁の都市になった。 
しかし、カントン・ベルン では重要な工業都市商業都市は発展せず、
19世紀はまだ多くの地域で農業や伝統的な経営が行われていた。

職業、資産、教養は社会的地位を決める基本的な基準だが、 
19世紀後半のスイスではいくつかのカントンで出自を基準とする身分制的な傾向がまだ残っていた。
ベルンもその一つで、 特にベルンでは社会的な格差が大きく、
身分制の影響が 19 世紀 を通じて長く続いていた。 

地方では大農と小農がはっきりとした対照をなしており、 
都市部では上流階級や一部の特権階級の市民 (1809 年から 1910年にかけて人口に占める割合が20%弱から5%に減少) が 
1900年頃まで政治的、 社会的な優位に立っていた。

この特権的な階層は、資産市民層において継続して優勢を占めており、
また教養市民層の約半分も彼らによって占められていた。
それに対して、 経済市民層 は特権階級ではなく、
19世紀に都市ベルンに移住した一族が占めていた。

ベルンでは、スイスのユダヤ人の解放前から、
フランス市民権をもつユダヤ人の 定住が許可されていた。
1846年のカントン憲法によって、自国で同等の権利を有するという留保付きで、
ユダヤ人の定住の自由、営業の自由、 信教の自由が保障され ていたのである。 
1848年にベルン、 1859年にビールにユダヤゲマインデが設立されたが、どちらもアルザスユダヤ人によるもので、 
1866年以前はフランス市民権を 持つアルザスユダヤ人以外のユダヤ人はベルンに存在しなかった。

1860 年に 820 人だったユダヤ人は、 1888年には 1195 人に増加し、
ベルンはスイスで2番目にユダヤ人が多いカントンになった。 
19 世紀末のユダヤ人の増加の要因の一つとして、 
多くのユダヤ人のスイスの大学への留学があげられる。 

ベルン大学をはじめとする スイスの大学は、ロシアで大学教育の道を閉ざされたユダヤ人の入学を許可してい たのである。

ベルンの動物保護協会は、1844 年に「動物虐待に反対する協会」という名称で、 
牧師アダム・フリードリヒ・モルツ(在任期間 : 1844-1869年)によって設立された。

設立当初の協会幹部は、獣医学教授、金利生活者、 総合商社経営者、警察隊長、 精肉業親方であった。

動物虐待を取り締まる警察官が幹部会員であることは、動物保護協会が動物虐待の取り締まりに力を入れていることの表れであり、 
精肉業親方が幹部会員であることは、当時から屠殺が動物虐待と密接な関係にあるとの認識があったことを示している。

史料が残っていないため、 1870年以前の会員数や会員の社会構成についての詳細 は不明である。
会員は、1872年に約 300 人34、1881 年に 471 人と増加し、
1892 年 に約 700 人と 19世紀で最も多くなったが、
翌年には567人まで一気に減少した。 

退会の原因として、動物保護協会は、一部は会員の死亡によるもの、
一部にはシェヒター問題をあげている。

恐らくシェヒター禁止が憲法に規定されたことで、
シェ ヒター問題が解決されたとみなした会員が、 
目的が果たされたとして退会したのではないだろうか。

会員が増えないことに加え、都市部以外で支部の設立が思うように進まなかったことも動物保護協会の懸案事項の一つであった。 

当初、 協会活動が 主に都市で広がり、
郊外ではまだ地歩を得ていなかったことに加え、
多くの使役動物を用い、屠殺が身近に行われていた郊外では動物保護思想の普及が思うように進まなかったのである。

設立以来、動物保護協会は動物虐待規制条例の制定 (1844年発布、 1857年改定) と動物保護思想の普及に傾注していた。
1879年に商業経営者で、 急進的な反動物実験の提唱者であったアントン・フォン・シュタイガー=ジョンドレヴァン(在任期 間: 1879-1883年)が会長に就任すると、 
屠殺問題とならんで動物保護協会の重要課題であった反動物実験が取り組みの柱となった。

動物実験運動の興隆の要因は、 
解剖学から生理学が独立した専門分野として確立され、
それによる動物実験の増加である。
フォン・シュタイガー=ジョンドレヴァンは、
動物実験の完全な禁止という個人の信条に基づき動物保護協会の方針を決定しようとした。 

しかし協会内には、動物実験は科学の発展に不可欠だという意見があり、 
完全な禁止か制限にとどめるべきかで意見の対立が起こり、
その対立は委員会委員の脱退にまで発展した。
最終的に、別協会としてフォン・シュタイガー=ジョンドレヴァンを会長とする 
「スイス反動物実験協会」が設立されることになった。

1880年に、 動物保護協会で反動物実験協会の設立が決定されると、
次の重点課題 として新たな屠殺器具の導入に関連してシェヒター問題が俎上に載せられ、 
以後シェヒター問題が積極的に取り組まれるようになった。

特に 1883年から会長となる連 邦粉薬管理局事務補佐官のアドリアン・シュトル医学博士 (在任期間 : 1883-1888 年)が、
1881年にシェヒター禁止を訴える講演をしたことをきっかけに、 
動物保護 協会はシェヒター禁止運動へと舵を切り始めた。 

1882年9月、動物保護協会は屠殺用マスクの使用を例外なく義務付けることで、
シェヒターを禁止しようと自治体に申請を行い、
この申請は翌年3月、 ゲマインデ議会で審議されたのち、 
カントン議会でも議論された。
動物保護協会中央理事会がシェヒター禁止を重点課題に決定したのはその翌年の1884年である。

ベルンの動物保護協会の考察から以下の2点が指摘できるだろう。 
第一に、シェヒターと動物実験は動物保護協会の重点課題であったが、
動物実験の完全な禁止に関しては、
科学の進展を阻害するという見解の会員との対立を生み出したばかりでなく、
動物実験を必要とする自然科学の先端的研究が連邦全体の課題でもあったため、合意を得ることが難しかった。 

その一方で、シェヒターはユダヤ人という宗教的少数派だけにかかわる問題で、 
その他の利害が発生せず、 取組みやすいテーマであり、動物保護協会および動物保護思想を宣伝する格好のテーマであった。
ユダヤ人の屠殺」という興味を引くテーマは、
人びとの関心を動物保護協会の活動へ向けることに多いに貢献したのである。 

次に、 ベルンの動物保護協会は、チューリヒや アールガウとは異なり会長交代を何度か経験し、 
そのたびに協会の活動方針が大き く転換している。 

動物保護協会の活動方針は会長の意向を強く受け、 
会員全員の合 議によるものではなく、会長や一部の幹部会員により決定されていたのである。

2.2.2. チューリヒの動物保護協会

カントン・チューリヒはベルンと異なり、 
18世紀末から一部の地域で工業化が進み、
19世紀後半には工業、商業、 銀行の中心地となった。 

それに伴いチューリヒは 19世紀後半に大幅な人口増加を経験した (特に 1880年代から1890年代の増加が顕著。 
1850年 : 約 25万人、 1900年: 約43万人) 
ツンフト(都市商・手工業者の 同業者組合)が力を持っていたチューリヒでは、門閥 (富裕市民層)による特権階級的な傾向はほとんど見られず、 
指導的な階層は商業経営者であった。 

チューリヒは、19世紀後半に、 特に民間鉄道会社やクレディ・スイス銀行の創設者アルフレー ト・エッシャーが代表するような政治的、経済的指導層のもとで、 
工業化の進んだ近代的でリベラルなスイスの中心地となった。 

チューリヒは、 商業、 銀行・保険業、 その他のサービス業の中心地である一方、
20世紀初頭までは引き続き工業や小規模 産業の重要な拠点でもあった。

また、チューリヒ大学(1833年)やスイス連邦工科大学の前身の連邦高等工業学校(1855年)の相次ぐ設立によって、
チューリヒはア カデミックの中心地としても発展した。

このようなチューリヒの発展は多くの人を魅了し、
スイス国内はいうまでもなく国外からも多くの人びとが移住し、その中に ユダヤ人も多数含まれていた。

ユダヤ人解放前の1860年チューリヒユダヤ人は162人で、 
ベルン (820人)、 アールガウ(1538 人)と比較すると非常に少数だったが、 
1888年には1349 人にまで増加し、チューリヒはスイスで一番多くのユダヤ人を抱えるカントンとなった。 

カントン・チューリヒは、カントン憲法で 1857年に営業の自由、 1862年に定住の自由がそれぞれ保障されるまで、 
1826年の瑞仏通商条約に基づいたフランス市民権を持つユダヤ人を除き、
様々な規制を課すことでユダヤ人を遠ざけようとしていた。

1860年代、1870年代にチューリヒに移住したユダヤ人は、
アールガウやアレマン地域、ドイツの大都市、 ディジョンやリョンなどのフランス東部、 
ハプスブルク帝国の大きく4つの地域の出身者であった。 

19世紀末からガリチア、ロシア、ルー マニアなどのいわゆる東方ユダヤ人がスイス、特にチューリヒに移住を始め、
彼らの移住は第一次大戦まで増え続け、
チューリヒには大きな東方ユダヤ人居住地が成立した。

どの時点に何人の東方ユダヤ人がチューリヒに居住していたかという正確な記録は残っていないが、
1876年に最初の東方ユダヤ人家族が移住し、19世紀末ま でに 112 家族の移住が記録されている。

この数をもとに、ユダヤ人の平均的な家族人数を6人から8人と仮定すると、
世紀末までにチューリヒに移住した東方ユダヤ人は700 人から 900 人 (チューリヒユダヤ人全体の約3割)ではないかと推定できる。
このようにチューリヒユダヤ人の特徴は、東欧出身のユダヤ人が比較的多い点である。

ツヴィングリによって宗教改革が行われたチューリヒでは、 
信教の自由は自明のものと考えられており、
ユダヤ人の移住が始まった18世紀末も、より人権に重点を 置く新憲法が発布された 1831年以降も、
ユダヤ人の信教の自由が問題となることはなく、
宗教に基づくユダヤ人嫌悪はなかったとされている。

しかし、チューリヒは、 19 世紀後半の急激なユダヤ人、
特に 19 世紀末以降の東方ユダヤ人の増加、
経済危機、第一次大戦を通じて、
他のカントンに類を見ないユダヤ人、 特に東方ユダヤ人 に対する厳格な定住及び帰化制限政策を行うようになるのである。

チューリヒの動物保護協会は、1856年に「動物虐待に反対する協会」という名称で、
牧師フリップ・ハインリヒ・ヴォルフ(在任期間: 1856-1900年)により設立された。

ヴォルフは、チューリヒの動物保護協会の会長の他、
ドイツ語圏スイス動 物保護協会の代表 (のちの中央理事会理事)、
チューリヒの船舶組合頭やカントン議員も長年務め、 
社会や政治に影響力を持つ人物であった。 

ヴォルフの社会的地位と交友関係の特徴は、 
協会創設メンバーの構成 (カントン議員、元カントン評議員、 牧師(3名)、博士をもつ男性)にも表れている”'。

チューリヒの協会はカントンを超えた活動を積極的に行っており、 
ドイツ語圏向けの機関紙 「スイス動物保護新聞」 (1864-1884年)も発行していた。 

ヴォルフはまたミュンヘンの動物保護協会とも 友好な関係にあり、 
スイス代表として国際動物保護会議にたびたび参加していた。 
このようにチューリヒの動物保護協会は地方協会としてだけでなく、 中央組織、さらに国の代表として、
スイスの動物保護協会の中心的協会であった。

チューリヒの動物保護協会は、 協会設立の目標として、動物虐待撲滅と動物保護 思想拡大を掲げ、
設立当初は動物虐待に関する法律の制定 (1857年7月2日公布) と、
特に青少年に対する啓蒙活動に力をいれていた。 

チューリヒをはじめ動物保護協会は、
動物虐待撲滅を効果的に進めるために、 動物虐待を取り締まる警察官や動物を正当に扱う人に対し報奨金を授与するという直接的な方法もとっていた。

この ような取り組みにもかかわらず、 ベルン同様チューリヒでも動物保護思想はすぐには広まらず、
会員が増えないことが協会の悩みであった。 

当初約 300人だった会員 は531878 年に 712 人まで増加するも、1894年には再び 461 人に減少している。

動物保護協会は、会員が増加しないのは、
人びとの動物保護に対する認識の低さではなく、
過剰な協会の設立が原因だとしている。

ヴォルフは、当初からチューリヒのみならず全国に動物保護思想を広めたいと考え、そのためには相互に連携した活動や中央組織の設立が不可欠であると考えていた。

1861年チューリヒで、中央組織の設立に向けた各地域の動物保護協会が集う初会合がヴォルフの呼びかけにより開催された。 
その後、 チューリヒが中心となり2年に一度各地で会合が開かれるようになり、
最終的に1885年にドイツ語圏動物保護協会中央理事会が設立され、 
理事にヴォルフ、 副理事にアールガウの会長ケラー=イエッギが就任した。 

中央理事会は、シェヒター問題や動物の鉄道輸送問題など、連邦レベルで取り組むべき課題に対応するために必要な組織だった。 当初フランス語圏の動物保護協会も全国会議に出席していたが、 
1880年代初頭にフランス語圏の中央理事会が設立され、 ドイツ語圏とフランス語圏の動物保護協会は、 
連携するものの基本的に別々に活動することになった。

チューリヒの動物保護協会は、設立当初から、
可能な限り痛みの少ない屠殺方法の開発が不可欠であると考えていた。 
1850 年代末から 1860年代のユダヤ人の増加に伴い、 
屠殺場でシェヒターが頻繁に行われるようになると、
これに対してシェヒターは動物虐待であり、 
禁止すべきだという苦情が動物保護協会に寄せられるようになった。

これを受けて動物保護協会は、 警察にシェヒターの禁止を要請したが、 
警察は、シェヒターは動物虐待ではないとする自ら依頼した専門家の鑑定に基づき、 その申請を却下した。 

チューリヒの動物保護協会は、この鑑定を受け入れ、 新しい屠殺器具の開発とその導入に関連してシェヒター問題に取り組む 1880年代まで、
ほとんどシェヒター問題を扱っていない。 
チューリヒの動物保護協会の特徴は、中央理事会の理事としてヴォルフがシェヒター禁止運動に深くかかわる一方で、
ベルンやアールガウと異なり、 カントンレベルでシェヒター禁止への働きかけを行わなかった点である。

2.2.3. アールガウの動物保護協会

カントン・アールガウは、 1803年に設置された比較的新しいカントンで、
ベルン、 チューリヒ、フライアムター、バーデン伯爵候によるかつての共同支配地が統合された、政治的、経済的、宗教的にも異なる地域によって構成されていた。 

そのため 特権階級が存続することが難しく、 ヘルベティア共和国成立時に貫徹されたすべての特権の廃止が、 復古時代も復活することなく継続された。 

カントン・アールガウ の経済的発展は、 以前に帰属していた地域の影響を大きく受け、
都市ベルンの支配 地域では早い段階で工業発展していたが、 
その他の小都市では家内労働にとどまり、 それ以外の地域ではほとんど農業しか行われていなかった。 
そのため19世紀後半に 人口の約4分の3が土地や資産を持たない小農や手工業者であった。

前述のように、アールガウにはユダヤ人村があったことから、唯一土着のユダヤ人が存在しており、
これが他の地域との大きな違いであった。 

そのためユダヤ人解放は、その他の地域ではフランスをはじめとする諸外国との通商上の外交問題であったのに対し、 
実際に土着のユダヤ人を抱えるアールガウでは解決すべき国内問題であった。
ユダヤ人解放後、 アールガウではユダヤ人の多くが都市へ移住し、 
1860 年に1538 人だったユダヤ人は、 1888年には1051人まで減少している。 
それでも アールガウは、1890年頃はまだチューリヒ、 ベルン, バーゼルに続き第4番目にユダヤ人が多く居住するカントンであった。

アールガウの動物保護協会は、1869年にアールガウ農業協会の一部局として設立され、
初代会長にカントン営林監督官のヴィートリスバッハ、 副会長に大学教授の ミュールベルクが就任した。 
設立当初 234 人だった会員は、 他の2協会と異なり、 
農業協会の組織網を背景に、 一年後には729人に増加し、53の自治体にまで広がった。

アールガウの動物保護協会がシェヒター問題に積極的に取り組むようになったの は、
アンドレアス・ケラー=イエッギ (在任期間: 1879-1898年)の会長就任以降であった。 
ケラー=イエッギは地区管理官、 州立病院管財人、スイス家財保険会社 (アールガウ)の主要代理店、 
カントン議員などを歴任する社会的地位の高い人物で、 ドイツ語圏動物保護協会中央理事会では副理事を務めた。

ケラー=イエッギは 熱心なシェヒター禁止推進者で、
各地でシェヒターに関する講演会を頻繁に開くと同時に、
シェヒターに関する出版物も多数発行し、 シェヒター禁止のイニシアティヴの推進役として中心的な役割を担った。 
ケラー=イエッギは会長就任直後、 中央組織に対して連邦レベルでのシェヒターの禁止を提案したが、
当時中央組織は動物実験により大きな関心を持っており、提案は受け入れられなかった。 

アールガウでは、法律で屠殺前の麻酔 (殴打による) が義務付けられていたが、
レングナウとエンディンゲンのいわゆるユダヤ村だけは 例外的に麻酔なしの屠殺、 
つまりシェヒターが許可されていた。

ユダヤ人解放後、 ユダヤ村以外にもユダヤ人が居住するようになり、 
この例外法が拡大解釈され、レングナウとエンディンゲン以外でもシェヒターが行われるようになった。 
これに対して、動物保護協会は、 法律違反だとし、 
指定地域以外でシェヒターを禁止するため、
カントン全域でのシェヒター禁止を求める申請を1886年にカントン議会に行っ た。
このようにケラー=イエッギを中心としてアールガウの協会は、
カントンレベ ルと連邦レベルで一連のシェヒター禁止運動を展開していった。

アールガウの協会はその会員の多さとケラー=イエッギの中央理事会副理事就任により、
ドイツ語圏動物保護協会の中心的な存在になった。 

同協会が 1887年にチューリヒから機関紙(同時に「スイス動物保護新聞」 から 「動物の友」に名称が変更された)の発行を引き継いだこともそれを裏付けている。 

アールガウの動物保護協会の特徴は、 前身組織であった農業協会のネットワークを利用し、 
設立直後に 組織が拡大し、会員数が増加した点である。 
また、アールガウでも会長ケラー=イエッギの影響力は絶大で、協会の活動方針は会長の意向が強く反映されたものであった。

 

③に続く

 

http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es12_akiyama.pdf

 

Yoko Akiyama

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